現実逃避行

これは余談ですが、自分と全く同じ顔の人がこの世に自分含め3人いるらしいです。

自由とは

2回目の投稿でなんという変なテーマだ!!!!

某私立高校を中退して通信に転校した高校2年から高校3年までの間、有り余る時間をどう使っていたのか。ひたすらにボーッとしていた。ボーッとしているといろんなことが頭に浮かぶ。考えが巡り巡って、僕の場合「自由とは」というテーマに帰着することが多かった。

まずそもそも自由とは何だろうか。例えば、慶應義塾中等部は普通部に比べて「自由」だと言われている。ならその「自由」と言われる所以は何処にあるか。第一に制服だろう。襟付きならOKというのはもはや私服だ。他にも例は挙げられるが、それらは全て「相対的な自由」であって、多くの辞書で定義される「絶対的な自由」ではない。恐らく今日世間一般で用いられる「自由」という言葉はその殆どが前者である。

僕が思うに、この世に「絶対的な自由」というのは存在しない。全て与えられた物であり、その自由には必ず制約や責任が伴う。遥か昔から歴史上の多くの人々が「絶対的な自由」を求めてきたがそんなものは理想であり、幻想である。「絶対的な自由」というのは、渇望され生きるエネルギーとされる為だけに存在する偶像のようなものだ。ヒトとして生まれヒトとして生きる以上、完全な自由は手に入れようがないのだ。

これ以降の「自由」は「相対的な自由」という意味で用いる。

ほとんどの人が、「今自分は自由だ」と感じる瞬間があるはずだ。果たしてそれは本当に自由なのだろうか。

例えば溜まっていた宿題を全て提出した時。そんな時、人は「自由だ」と感じる。しかしまとめて提出された教授側はどうだろうか。自由を大幅に削がれるだろう。つまり、自分が「自由だ」と感じている時、それと同時に他の誰かが「不自由だ」と感じているのである。物質と反物質のように、この世には「自由」と同じだけの「不自由」が裏に隠れている。「自由を望む」=「他人の不自由を望む」という関係式が成り立つ。そして、この世界の「自由」の絶対量は一定であるということが言える。むずかしいね。

自分が「不自由だ」と感じている時、どこかの誰かを「自由」にしている。つまり、自由を望むよりも、不自由を望む方が人間として正しいのではないかということである。

 

しかし、僕はそんな出来た人間ではないので、今日も誰かの自由を消費して自分の自由を求める。

 

ここまで全部読んだ人いないだろ